chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質

ロブロが教えてくれたデンマークの豊かな暮らし

Chapter 5 / 第5章
時間が育てるロブロ
――時間という、もう一つの材料の本質

7月6日。
この日は驚くほど目覚めが良かった。
ようやく時差ぼけも解消され、ホテル前で夜遅くまで続いていた若者たちの賑わいも静まり、久しぶりに熟睡できたからだ。

朝食の席にも、ようやく旅の良好なリズムが生まれていた。
それもすべて、今回のツアーを企画・同行してくださったくらもとさちこさんの細やかな気配りのおかげである。

ホテルの朝食はビュッフェスタイルであった。
日本ではごく当たり前の形式だが、くらもとさんは「デンマークでは少しクラシカルなスタイルなんですよ」と教えてくださった。
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 朝食
デンマークにおいては、パンに何を合わせるかという組み立て自体が食事の醍醐味なのだという。
ロブロにどのような具材を重ねるのか。
味覚だけでなく、食感、色彩、香りまでをトータルで設計しながら組み合わせる。
スモーブロとは単にお腹を満たすための食事ではなく、「味を重ね、それぞれの素材の役割と調和を楽しむ文化」なのだ。
その本質を私たちに伝えるため、くらもとさんは朝早くから私たちのために数種類のスモーブロを手作りしてくださっていた。

前日に私自身が手探りで作ったスモーブロとは、まったく次元が異なっていた。
ロブロの個性を十二分に活かしながら、それぞれの具材が見事に調和している。
一つひとつの組み合わせに明確な意図があり、「なるほど、この組み合わせか!」と思わず感嘆の声が出た。
パンは主役でありながら食材を引き立て、同時に食材によって自らの魅力も最大限に引き出される。

そうしたデンマークならではの深い食文化を朝食の時間を通じて直に学ぶことができた。
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発酵は、時間がつくる仕事

麦の家へ到着すると、参加者は一斉に前日仕込んだロブロのもとへ向かった。
まるで我が子の成長を見守るかのように、皆がホイロ (発酵器)の前へ集まる。
冷蔵庫から取り出された生地は、8℃の低温で一晩じっくりと発酵を続けていた。
前日は重たく静かだった生地が、今ではふっくらと生きて息をしているように見えた。
型の大きさはそれぞれ異なり、生地量も目分量で調整されていたが、どの型も驚くほど見事な発酵状態を示していた。
理想的な状態とは、生地の中央が少し盛り上がり、“かまぼこ”のような、なだらかな山形になることだという。
派手な変化ではない。
しかし、一晩という時間が生地の中で確実に仕事をしていたのだ。
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロ
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロ
chapter4 / 第4章 穀物と向き合う時間 - アウリオン(Aurion)社で学んだ「ロブロづくり」の本質 ロブロ 古代ライ麦
chapter4 / 第4章 穀物と向き合う時間 - アウリオン(Aurion)社で学んだ「ロブロづくり」の本質 ロブロ バイオダイナミックライ麦
chapter4 / 第4章 穀物と向き合う時間 - アウリオン(Aurion)社で学んだ「ロブロづくり」の本質 ロブロ 焼き畑ライ麦
chapter4 / 第4章 穀物と向き合う時間 - アウリオン(Aurion)社で学んだ「ロブロづくり」の本質 ロブロ 春蒔きライ麦

焼くのではなく、「育てる」

いよいよ窯入れである。
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロ
焼成時間は90分。
最初の60分は蓋をしたまま焼き、最後の30分で蓋を外して理想的な焼き色をつける。
一見すると単純な工程に見えるが、真に重要なのは単に「時間」を守ることではない。
目指すべき絶対的基準は、ロブロの中心温度を確実に98℃まで引き上げることである。
90分という時間を軸としながら、オーブンの熱特性や型の材質、容量に合わせて温度を微調整する。
つまり、設定温度にパンを合わせるのではなく、「90分後に中心温度98℃へ到達させる」ことを目指してオーブン側をコントロールするのだ。

パンを機械に合わせるのではなく、パンの状態に機械を合わせる。
この思想は非常にデンマーク的であり、深い感銘を受けた。効率よりも生地の生命と対話することを何より大切にする姿勢が、そこには固く息づいていた。

90分後。
オープンから取り出された12本のロブロは、どれも見事な焼き上がりであった。
焼き上がった瞬間、室内には歓声が湧き起こった。

参加者から真っ先に上がったのは、「香りが全然違う!」という驚嘆の声であった。
「どうすれば、この素晴らしい香りが出せるのだろう」という質問が飛び交う。
香りの表現は人それぞれだが、「爽やかな酸味を帯びた香り」「深く香ばしい大地の香り」と表現する声が多かった。
私自身も、これまで経験したことのない複雑で奥行きのある芳香に圧倒された。
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロ

その最大の理由は、前日に自分たちの手でライ麦の玄麦を石臼で挽いた“挽きたて”の粉を使用したことにある。
やはり挽きたての穀物が持つエネルギーと香りは格別だ。文字や言葉だけでは到底伝えきれない。
現地で五感を研ぎ澄ませて体験して初めて到達できる世界であると痛感した。

型が変われば、パンも変わる

今回比較した三種類の焼成型も非常に興味深い結果をもたらした。
アルタイト製、ブナ材、そして耐熱強化樹脂「EXOGLASS」。

なかでも特に強烈な印象を残したのは、ブナ材の木型である。
焼き上がったロブロにはほのかに木の香りが移り、どこか温かみのある滋味深い風味が加わっていた。

一方で、木型は金属と異なり熱伝導が緩やかであるため、側面の焼き色は穏やかでメイラード反応も控えめになる。
メイラード反応は香ばしさを生み出すだけでなく、ロブロの構造をしっかり保つ上でも極めて重要な役割を果たす。
また、ライ麦の品種によっても焼き上がりの表情は明確に異なった。
赤みを帯びるもの、落ち着いた深い褐色になるもの。

香りだけでなく色合いまでもが多様であることを目の当たりにし、「ライ麦」と一括りにできない奥深い世界を実感した。
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロ

パン(ロブロ)は、最後の一切れまで大切に食べる

ロブロが焼き上がっても、実習は終わりではない。
続いて、くらもとさちこさんから伝授していただいたのは、「ロブロを最後の一切れまでおいしく食べ切る知恵」であった。
デンマークでは、余ったロブロも絶対に無駄にはしない。
この日のメニューは以下の通りである。
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロ ロブロ粥(Øllebrød:ウレブロ)
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロ 大麦粥
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロ ロブロ塩そぼろのサラダ
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロ ロブロ塩そぼろのサラダ
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロ ロブロ甘そぼろとスキール、季節のベリーのせ
※「スキール」とは脂肪分2%の低脂肪無糖発酵乳。
スキールはアイスランドに伝わる発酵乳でヨーグルトよりも水分が少なく、低脂肪なのにコクがあります。ノースシーチーズ(北海チーズ)のメーカーThise(ティーゼ)さんがデンマークで初めて生産販売を行い、大きな話題になりました。
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロ ロブロ生そぼろのお祝いケーキ
麦粥は、古来からロブロと並んでデンマークの基本食となっている。
ロブロ粥は硬くなったロブロを最後まで食べるために頻繁に作られていたそうだ。
大麦はライ麦と並ぶ主要穀物だが、ライ麦のようにパンになる麦ではなく、ビールの原材料とともに、粥として、スープの具として使われてきた。
今回は、最近では「忘れられた粥」と言われている、ロブロと同じくらいの歴史を持つ大麦粥が紹介された。
ロブロを最後まで利用する方法としては、サラダに使える塩そぼろ、朝食時にシリアル代わりに使える甘そぼろ、そして、ロブロの生そぼろを使うお祝いケーキが紹介された。

ジャムやフィリング類も既製品ではなく、すべて無添加の手作りだ。
素材本来の味覚を尊ぶ姿勢が、ここにも貫かれている。
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質  麦の家昼食
参加者はチームごとに分かれ、調理に取りかかった。
一見シンプルに見える粥料理も、水分量や火加減の見極めが仕上がりを大きく左右する繊細な作業であった。
全員が自然に役割を分担し、声を掛け合いながら効率よく調理を進めていく。
ロブロづくりを通じて培われた連帯感が、そのまま料理の手際に表れていた。
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質  麦の家昼食
やがて料理がテーブルに並び、試食が始まった。
日本において「甘い温粥」は馴染みが薄いかもしれない。
しかし一口、口に含むと、驚くほどやさしい味わいで、素材本来の自然な甘みが穏やかに広がる。
甘さを極力抑えたジャムや生地は後味が爽やかで、いくらでも食べられるほどであった。
自らの手で作り上げた食事ゆえだろうか、前日以上に会話が弾み、笑顔の絶えない素晴らしい食卓となった。
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロ

パンは焼き上げて終わりではない。
最後の一切れまで感謝を込めて美味しくいただく
――そんなデンマークの食文化の神髄に触れ、食物への敬意と暮らしの豊かさを改めて深く噛み締めた時間であった。

名残惜しい「麦の家」との別れ

時計は14時を指していた。
約一日半にわたる濃密なロブロ研修も、いよいよ終わりの時を迎えた。
私たちは名残惜しさを胸に、麦の家を後にした。
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 「麦の家」との別れ

オールボー空港から再びコペンハーゲンへと戻るためである。
振り返ると、木とレンガで造られた温もりある建物が静かに佇んでいた。
ここは単なる施設ではなかった。
穀物の悠久の歴史を学び、ライ麦に触れ、パンを焼き、人と語らい、食べるという行為の本質を捉え直す聖地であった。

「必ずや、再びこの地を訪れたい」
――自然とそう心に誓える場所に出会えたことは、私の人生にとってもかけがえのない財産となった。

焼きたてロブロの試食会

夕方、コペンハーゲンへ戻った私たちは、ホテルにて本日焼き上げたばかりのロブロの試食会を開催した。
本来ロブロは、焼き上げてから1~2日ほど置くことで水分が馴染んで味が落ち着き、真のおいしさが引き出されるとされる。
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロの試食会
しかし日程の都合上、今回は焼きたての状態を味わうこととなった。
参加者全員で手際よく夕食の準備を進める。
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くらもとさんからは「おうちスモーブロ」の極意を教えていただいた。
家庭でも気軽に再現できるよう工夫されたスモーブロは、特別なごちそうというより、日々の暮らしに根ざした食文化そのものであった。

メインディッシュは、デンマークの伝統的豚肉料理フレスケスタイ (Flaskesteg)だ。
豚ロース肉の皮に1cm幅で切り込みを入れ、ローリエなどのハーブを挟み、塩・コショウをしっかり擦り込んでカリッと香ばしく焼き上げるローストポークである。
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デザートには、デンマークの伝統菓子フルーデボーラー (Flødeboller) が用意されていた。
アーモンドベースの生地にしっかり泡だてたメレンゲを絞り、チョコレートでコーティングしたお菓子である。
まるで生マシュマロのような軽やかな口どけで、食後の締めくくりにふさわしい上品な甘さであった。
chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロの試食会 chapter5 / 第5章 時間が育てるロブロ ――時間という、もう一つの材料の本質 ロブロの試食会 Summerbird社のFlødeboller

気がつけば時計は21時を過ぎていた。
本日はロブロの発酵・焼成に始まり、調理実習、オールボーからコペンハーゲンへの移動、そして夕食品評会に至るまで、実に濃密で精力的な一日であった。
明日はコペンハーゲンの街を歩きながらベーカリーやレストランを巡り、都市生活の中に生きるロブロを探求する旅路が始まる。
パンを学ぶ探求の旅は、まだまだ終わらない。

旅行者・手記執筆:杉江正治(ママパン事業責任者)