7月8日。
いよいよロブロとともに巡ったデンマークでの旅も、最終日を迎えた。
明日の早朝にはホテルを後にし、帰国の途に就く。
名残惜しさが募る一方で、この日のコペンハーゲンは最終日を祝福するかのような澄み切った最高の青空に恵まれた。
本日のメインイベントは、アダム・オーマン氏の旗艦店Aamanns 1921にて、至高のスモーブロ・コース料理を堪能することである。
昼食までの時間は、コペンハーゲンが世界に誇るデザインや工芸文化に触れながら街を散策した。
暮らしを美しくするデザインの国
コペンハーゲンといえば、1775年創立の名門ロイヤル コペンハーゲンである。
世界中で愛される陶磁器ブランドであり、私も長年憧れを抱いてきた。
あいにく時間の関係で店内を隅々まで鑑賞することは叶わなかったが、本店の重厚な構えの前で記念撮影ができただけでも感無量であった。
近隣の高級百貨店には、北欧デザインを代表するトップブランドが軒を連ねる。
イルムスボリフス、ルイスポールセン、そしてくらもとさんも愛用されているデンマーク製の高品質ディッシュクロス。
白を基調とした洗練された色彩、可憐な花を思わせる優しいトーン、土や森林を象徴するアースカラー。
過度な主張はない。
しかし、日々の暮らしを確実に格上げしてくれる美しさがある。
「美しく上質なものを特別な日だけに仕舞い込むのではなく、日常の中で愛用する」
――そんなデンマーク人の豊かな価値観が、街の随所に溢れていた。
いよいよ、スモーブロの最高峰へ
正午を少し回った頃、私たちは憧れのAamanns 1921の門をくぐった。
扉を開けると、そこには静寂と洗練が同居する上質な空間が広がっていた。
外観は控えめであるが、一歩中に足を踏み入れた瞬間に漂う格調高い空気感が「ここは本物だ」と確信させる。
私達一行17名は地下のダイニングルームへ案内された。
あいにくこの日もオーマン氏ご本人は不在であったが、熟練のシェフやスタッフの方々が温かい笑顔で迎えてくださり、その誠実なホスピタリティに心が温まった。
目の前で完成していく、一枚の芸術
通常、このコースではフルサイズのスモーブロが2種類提供される。
しかし今回は、私たちの学び(スタディ)のために特別な対応を施してくださっていた。
各料理をハーフサイズに調整し、計4種類もの多様なスモーブロを味わえるよう特別構成にしてくださったのだ。
サイズは小さくなっても、仕事への妥協は一切ない。
ロブロという土台の上に厳選された食材が手際よく重ねられ、ハーブが添えられ、最後の一滴のソースに至るまで精密に仕上げられていく。
目の前で一枚の絵画が描かれていくような美しさであった。
製パンや食品に携わるプロフェッショナルである参加者にとって、オープンキッチンでシェフの高度な技術を間近に観察できる時間は、何物にも代えがたい贅沢であった。
当然、視線は料理のみならず「器はどの窯元か」「ナイフの仕立ては」「プレゼンテーションの技法は」といった道具や資材にまで及ぶ。
まさに職業病というほかはない(笑)。
季節を味わうという贅沢
最初に提供された2品は、熟成にしんマリネのスモーブロと新じゃがいものスモーブロであった。
どちらも古典的なスモーブロとして愛されているが、新じゃがは初夏の今この時期だからこそ味わえる最高の旬の味覚だ。
熟成にしんマリネは、マリネ液にエルダーベリーを加えて季節の味覚を添えていた。
デンマークでは、旬の食材を通じて四季の移ろいを感じ、大地の恵みを祝い、自然へ感謝を捧げる。
一年中あらゆる食材が手に入る現代の日本において、私たちが失いかけていた大切な感覚を呼び覚まされた思いがした。
料理に合わせるのは、オーマン氏特製のライ麦製スナップスである。
ここでしか味わえない貴重な蒸留酒だ。
さらに本日は、IPAビールではなく小麦を主体に醸造されたホワイトビール(オーマン氏特注品)をオーダーした。
料理の風味と緻密に計算されたペアリングが、一皿ごとのポテンシャルを極限まで引き出していた。
一皿の中に宿る、料理人の哲学
続いて提供された二皿目は、特製スモークサーモンのスモーブロと、燻製風味のフレッシュチーズと夏野菜のスモーブロである。
鮮やかなサーモンの上には、赤スグリ(レッドカラント)と白スグリ(ホワイトカラント)が美しく散りばめられていた。
赤スグリは見慣れているが、白スグリの実物は初めて目にした。
くらもとさんによれば、現地デンマークでも滅多に出会えない希少な高級食材だという。
そのわずか一粒が加わることで、味覚のアクセントのみならず、色彩の対比、爽やかな酸味、プチッとはじける食感に至るまで、すべての要素が見事な均衡を保っていた。
燻製風味のフレッシュチーズも夏を象徴する食材で、夏野菜と組み合わせることが多い。
スモーブロとは、決してパンの上に具材を無造作に載せたファストフードではない。
ロブロという一枚のキャンパスの上に、四季の恵み、土地の風土、生産者の誇り、料理人の美学、そして食べる者への情熱が凝縮された、完成された芸術作品なのだ。
ナイフを入れることすらためらわれる料理
――そう思わせる逸品には、滅多に出会えるものではない。
チボリ公園――人々の幸せを願って生まれた場所
Aamanns 1921での至高の体験を後にした私たちは、旅の締めくくりとしてチボリ公園(Tivoli Gardens)へと向かった。
入場は最先端のデジタルチケットで行われ、再入場の手続きとして手の甲にスタンプが押される。
高度なデジタル化の中にアナログな温もりが残る、デンマークらしいシステムであった。
チボリ公園は1843年に開園した、世界最古級の歴史を誇るテーマパークである。
当時、「身分や貧富の差を超え、すべての市民が平等に憩い、人生を楽しめる場を創出したい」という高潔な理念のもと設立された。
その精神は180年の時を超えて現代にも脈々と受け継がれている。
園内にはアトラクションのみならず、美しい庭園、歴史ある劇場、音楽堂、高級レストランが配置され、文化と芸術が人々の日常の中に深く融合している。
海外旅行が一般的ではなかった当時、だれでも異国が体験できる文化施設として作られた、と言われている。
なお、あのウォルト・ディズニー氏がディズニーランドを構想する際、このチボリ公園を何度も訪れ深いインスピレーションを得たという逸話は極めて有名である。
「あらゆる人々を楽しませ、幸せにする」という情熱は、この地から世界へと広がっていったのだ。
旅の最後の晩餐
その歴史あるチボリ公園内のレストランにて、私たちは本研修旅行のファイナルディナーを迎えた。
この一週間、各食事の席では私が不慣れながら乾杯の音頭を執らせていただいてきた。
しかし、最後の宴だけは特別である。
この素晴らしいスタディツアーを企画し、緻密な準備を重ね、私たちを完璧にナビゲートしてくださった案内人・くらもとさちこさんから主催者としてのご挨拶をいただき、全員で盛大にグラスを合わせた。
この1週間の出来事が頭を巡り、胸の奥から熱い感謝の気持ちが込み上げてきた。
一皿目は、この初夏の時期しか味わえない小エビの冷製スープ。
目の前で注ぎ入れられる鮮やかなグリーントマトのスープには隠し味としてハバネロがかすかに効かせてあり、爽やかなハーブの香りの中に心地よい刺激が走る。
味の素晴らしさは勿論のこと、客の目の前で料理を完成させるプレゼンテーション技術にも、食を楽しませるサービス精神が凝縮されていた。
二皿目は、初夏のデンマークを象徴する旬のチキン料理であった。
北欧の初夏においては、多くの名店が競って最高の鶏肉料理をメインとして提供するという。
付け合わせとして添えられたのは、小ぶりな新じゃがいものボイルである。
過度な装飾や豪華さを誇示するのではなく、素材が持つ最高の瞬間を最もシンプルな調理で味わい尽くす。
それこそがデンマーク食文化の真骨頂であると、この一皿が雄弁に語っていた。
一人ひとりの「ありがとう」
デザートには、デンマークの伝統菓子フルーデボーラーが運ばれてきた。
甘美な余韻に浸りながら、参加者一人ひとりがこの旅の総括として感想を述べた。
「一言短めに」という最初の申し送りであったが、マイクを握ると誰もが溢れ出る情熱を抑えきれない。
ロブロから得た深い学び、自身の事業やパン作りへの想い、デンマークで出逢った温かい人々への感謝、そして何より全行程を完璧に支え続けてくださったくらもとさんへの深謝。
――それぞれの胸に刻まれた一週間が、熱い言葉となって語られた。
気がつけば一時間以上の時が流れていた。
旅の終わりという特別な瞬間だからこそ分かち合えた、至高の時間であった。
夜に輝く灯りの中で
レストランを辞した後、閉園時刻の23時までチボリ公園の庭園をゆっくりと散策した。
空はすでに深い群青色の夜空へと移り変わっていた。
園内を照らす柔らかな灯火、遠くから漂う優雅な音楽。
園内には幼子から老夫婦に至るまで、あらゆる世代の人々が穏やかな笑顔で思い思いの時間を楽しんでいた。
この幸福な光景を眺めながら、私は確信した。
デンマークにおける「豊かな暮らし」とは、物質や財産を過剰に所有することではない。
家族や親しい仲間と食卓を囲み、四季の移ろいを慈しみ、質の高い食事をゆっくりと味わい、人と人との対話の時間を心から尊ぶこと。
そうした日常の誠実な積み重ねこそが、幸福の真体(しんたい)なのだと。
そしてロブロは、常にその豊かな暮らしの中心に存在している。
毎日の家庭で親しまれるロブロは、決して飾られたパンではない。
しかし日々の生命を支え、人と人を結びつけ、四季の訪れを告げる。
まさにデンマークの文化・精神そのものであった。
旅の終わりに
一見すると「ロブロというパンの製法を学ぶ」ために訪れたデンマークであった。
しかし、私が真に学んだものは単なる製パン技術やレシピではなかった。
ライ麦を育てる農家の崇高な思想、自然の摂理とともに歩む持続可能な農業、食材を最後の一粒まで愛おしむ生活の知恵、食卓を囲むかけがえのない歓び、そして「食」を通じて人生全体を美しく豊かに彩る文化そのものであったのだ。
ロブロは単なる一塊のライ麦パンではない。デンマークという国の壮大な歴史であり、民の暮らしの軌跡であり、生き方の哲学そのものなのだ。
日本へ帰国した後も、四角いロブロの切れ端を目にするたび、私はあの澄み切ったデンマークの空と風を鮮明に思い出すだろう。
そして、この旅で授かった豊かな学びと感動を、日本国内の多くの人々へ伝えていくこと
――それこそが、今後の私に課せられた新たな使命であると確信している。
旅行者・手記執筆:杉江正治(ママパン事業責任者)